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きぜつちゃんに関する覚書

 この混沌とした令和のインターネット……もといYouTubeを生き抜くための正解のような、ひと目で印象づけられるサムネイルの効果だろうか、数週間前からホーム画面で何度もサジェストされていることは気づいていたが、大食をすることも、それを見ることも特に趣味ではない私は、しばらく見過ごしていた。しかし数日前、ふたたび表示された動画をなんとなく再生してみると(腹が減っていたのかもしれない)、自分でも意外なほど馴染んだ。大雑把にいえば、限界社畜系のVlogと、このごろ一段とポップに扱われている「ドカ食い気絶」と、月ノ美兎敷嶋てとら無月めもり、あるいはマヨチャンねるなどの、私にとって親しみ深い散歩動画の要素が入り混じっている。それで気になって、過去の動画をいくつか視聴したあとにTwitterのアカウントを確認したところで、きぜつちゃんが個人勢のVTuberを自称していることを知ったのだった。

 動画のなかで、きぜつちゃんは現実の東京を歩く。訪れた店の住所も示す。コールセンターの仕事の体験談を話す。そしてときおり、ネイルで飾られた手許が映りこむ。だからVTuberという自称は単なる戦略的な方便であると見做すことは簡単だが、私はそう思わなかった。たとえばアズマリムの動画は、実写の風景のなかに彼女の身体が溶けこんでいる場面がひとつの見どころだが、そこに至るまでの過程においても、手書きのイラストを随所に散りばめることによって、姿の見えない話し手さえ他ならぬアズリムであることを私たちに忘れさせなかった。きぜつちゃんが惜しみなく使用するさまざまな頭身のイラストやアニメーション、および2Dモデルには、これと同様の効果が感じられる。ある種の生々しさが前景にあったとしても、私たちがきぜつちゃんの存在を立ち上げるための回路は、わざわざ用意されているのだ。ここに、虚実の境界線に近いところから虚の側を志向するようなスタンスを読み取りたくなるのは、「好きなVTuberいますか?」という質問に対して月ノ美兎とぽんぽこの名を挙げていたことも影響しているだろう。

 動画のフォーマットはすでに完成されている。まず深夜の路上から始まり、iPhoneのロック画面を映して現在時刻を共有する。それからひとけのない街を喋りながら歩き、目的の飲食店でご馳走を手に入れる。帰宅してそれを食べる。一心不乱に食事をしているあいだは、ナレーションで雑談やマシュマロへの回答をする。食べ終わったらベッドに飛びこみ、やがて眠りに落ちる。真夜中の散歩・暴食の背徳感を共有しながら、同時に内面や人間性も伝えられる無駄のない構成だが、私が惹かれたのは、そのなかに視点のバリエーションがあることだった。視聴者に語りかけるような独り言と、誰に向けてもいないような呟き。店員との軽い会話。あるいは無言で街の風景を映しだす時間。ナレーションも、店や街の解説と、「副音声きぜつちゃん」によるエピソードトークや質問回答ではトーンが異なる。むろん、いずれも手法じたいは珍しくないが、こういった要素が適切な配分で6分前後の動画のなかに取り揃えられていると、なんだか名手の掌編を読んだような爽快感を味わえる。加えていえば、この語りだすポジションの奥行きが、先に書いたようなVTuberとしての存在感にも寄与しているように感じる。私たちがVTuberのVlogなどを観て、どこにも姿が見えない彼や彼女を、しかし確かにその場所に居るものとして認められるのは、多くの場合で生配信を通して、姿と声を結びつけた経験や記憶を蓄積しているからだ。つまり、今のところ生配信をしていないきぜつちゃんに対して、私たちが輪郭を描きだすための資源は乏しい。それでもVTuberであるという自称に納得できるのは、いくつかの姿と語りを、軸を曲げない程度に一本の動画のなかに凝縮する、優れた自己演出があるからなのだと思う。

 しかし、思えば「ドカ食い気絶」には、酒や煙草や薬による頽廃と似たような趣きがある。自分を労働力として磨り減らす都会の中心部に夜から繰りだし、照明が煌々と輝く深夜営業の店で受け取った悪魔的な品々を食べることで、「数年の寿命と等価交換で得られる幸福」を享受する姿は純粋にエンタメとして面白いが、同時に共感を呼び起こす悲哀もほのかに漂っている。掌編の名手という喩えを継ぐなら、破滅型の私小説のような魅力が、そこには感じられる。チャンネル登録者は2ヶ月と経たずに7万人を超えており、彗星になぞらえるのは綺麗すぎる気もするが、とにかくそのように現れたきぜつちゃんの活動は、今後どのように展開されるのだろうか。たとえば3Dの身体を得るなどして、より強固にバーチャルな存在感を確立する方向に進んだら、それは私にとって喜ばしいことである。

20251127 日記

ただそれだけのもの

 タイトルとサムネイルを見てすぐ「後で見る」に保存し、視聴を楽しみにしていた。お便りを募ったり、コーナーを設けたりせず、ただ会話をしている。「卒業式の日、自分の知らされていない先生へのサプライズを横目にひとりで帰宅した」という例のエピソードが端的に示すように内向的な雰囲気がある酒寄くんと、対照的に溌剌としている早乙女さんの組み合わせが、両者の魅力を引き立てあっているように見えて楽しい。酒寄くんが憧れの先輩よろしく「エモ」の持論を展開したり、配信の才能などといった深めの話題のなかで自分の考えを明かしたりすると、それに対する受け応えのなかで早乙女さんの内面も垣間見える。今後もすぺしゃーれのメンバーをひとりずつ招いて喋る予定らしく、昨日には「雲母たまこと喋るだけ」の配信があった。こちらはまだ観られていない。
 同様の配信としては、緑仙の「お話するだけ」やリゼの「通話中」がすぐに思い浮かぶ。最近なら「ゆめうつつ」も、話し相手は変わらないが、話題を決めずに会話をするという意味では近い。ソロでいえば倉持の「だけ雑談」も、方向性は同じだろうか。しかし、この「だけ」という副助詞が、私には何か象徴的なもののように思える。
 そこからは一種の自嘲や、韜晦や、予防線のようなニュアンスが感じられる。いつか雑キープが、雑談コラボが減っていることを憂うようなトーンで語っていたとき、やしきずは「業界が成熟した結果、雑に集まりづらくなった」と言っていた。あるいは誰だったか忘れたが「台本なしに他の配信者を呼ぶ勇気はない」という言葉も耳にした覚えがある。きちんとしたものが増えて、手の込んでいないものが結果的に低位へシフトするのは当然のことだ。緑仙が「お話するだけ」を2019年の時点から始めているのも、初期から頻繁に企画を組んでいたことを思い出せば腑に落ちる。だからこそ、事務所が成熟してからデビューした酒寄くんが「喋るだけ」の配信をすることは貴重に思えた。配信の最後の、「これぐらい緩くたっていいと思うんだよな」という言葉が頼もしい。それに対する早乙女さんの、「颯馬といると普段出さないようにしてる深いところがちょっと顔を出す」という返答もよかった。
 ここに書くのも憚れるようなことで、最近は流石に聞かなくなったが、VTuberへの揶揄として「絵をつけただけ」という言い回しが紋切り型になっていた時期がある。そこには3Dを中心として新しい世界が広がっていくことを期待していたひとたちの失望も表れているのだと思うが、むしろ私は「絵をつけただけ」で、あらゆるものが変わって見えることに驚いていた。こちらも最近公開された、大槻ケンヂとジョー・力一の対談を聞いているとき、音楽や文芸の疑いようもない能力を持っているオーケンと会話している力一は、はたして何によって、ここまで来られた人間なのかということを考えた。高い技術や目を瞠る才能、用意周到なエンターテインメントが評価されて然るべきである一方、「それだけのこと」で何かが変わり、以前までなら見落とされたり、一蹴されたりしていたかもしれない「それだけのもの」が有している輝きを、察知できるようになることもある気がするのだ。

20250728 日記

RSS対応

 サイトの更新通知をRSSで受け取れるように設定しました。リーダーを使用している方はお試しください(なにか不具合があったら教えてほしい)。



 少し前からRSSリーダーを使っている。昔から存在は認識していたものの、具体的な機能や利便性は理解していなかった。好きなVTuberの配信・動画やブログ・Podcastの更新を、ひとつのアプリケーションのなかで欠かさず知れるのが便利で、なおかつ楽しい。どのコンテンツを登録するか、デッキを構築するような気持ちで考えていた。好奇心に基づいたネットサーフィンはさておき、ただ漫然となにかを求めて(その実なにも求めていないのだが)SNSや動画サイトを彷徨う時間は虚しい。そういう虚しさのなかで見つけたものも少なくないが、自分に必要なものはこのなかにあり、それが更新されていないのなら、今すぐに触れるべきものは無いのだと思えることは穏やかだ。Reederというアプリが、UIやデバイス間の連携などの点で気に入っている。

20250704 告知

連鎖する生活

 御景ツキとのコラボから存在を知り、ここ最近は田中なたのアーカイブをしきりに流していた。一般公開されている雑談配信は、ほぼすべて視聴したように思う。静かなBGMと低い声。中性的なビジュアル。実家に引きこもって仕事をする日々の生活。なぜか大抵かわいそうな顛末を辿るエピソード(祭りに着ていったスージー・ズーのティシャツを花火で燃やされた話が特に気に入っている)。本人のクールな雰囲気が手伝っているのか、拾われるコメントの距離感も丁度いい。聞きながら共感し、安心し、笑い、ときに憧れている。

 取り調べにおけるカツ丼の代金は被疑者が払わないと利益供与になる、というコメントから、雑談はカツ丼の話題に移る。「ちょっと前までは、どうしてさくさくに揚げたカツをわざわざ卵に綴じてしんなりさせるんだよって思ってたけど、もうね、口の中が痛いんだ揚げたてのカツは……」。この言葉に食欲をそそられて、今日の昼は珍しくカツ丼を食べた。50年近く夫婦で切り盛りしている老舗らしく、安価で、見事に卵で綴じられており、味も美味かった。小さな店だったから食事中はイヤホンを外していたが、その前後も田中の雑談を聞いていたのだった。

20250531 日記

夕方に眠る

 今日は朝から落ち着かなかった。なにか気になりごとを抱えていたわけではない。ただ、私のなかの内燃機関が少し狂っているような気がした。そういう日はしばしばある。作業に身が入らない。やることなすこと中途半端に終わる。いわば、33回転で聴くべきレコードを45回転で再生しているような忙しなさが続くのである。直接的な原因は定かでないが、今日は風が異様に強かった。環境音の面でも、いわゆる気象病のような面でも、風が強い日は昔から好きでない。

 夕方ごろ、休憩時間を使って一睡した。起きたら陽が落ちていて、部屋は暗かった。風も弱まっている。身体を起こし、水を飲みながら目を覚ましていると、件の落ち着かない感覚が消えていることに気づいた。床で眠ったせいで足腰は痛んでいたが、心身が整頓されたような気がした。風が弱まったからかもしれないし、単なる睡眠不足だったのかもしれない。

 深夜営業の店が減少している、という話題から酒寄颯馬は、夜明けに寝て朝に起き、夕方に寝て夜に起きる生活習慣について語っていた。このリズムは「世のなかのいちばんいい時間を生きている気がする」という。「朝日とか夕陽が出てる時間って虚無なんだよね」。朝焼けや夕景の美しさに眩んでいたけれど、言われてみれば頷ける。今日の寝起きを経て、あらためて思い出していた。しかし私に、真夜中の外食チェーンの甘美や、通勤・通学のひととすれ違う朝の散歩の愉楽を存分に味わえる日々は、今後訪れるのだろうか。職に就き、ひとり暮らしを始め、気づけば一年が経った。

20250415 日記

「ecg.mag #20」への寄稿

 サークル「enchant chant gaming」が月いちで投稿している、一ヶ月のあいだに触れたコンテンツをまとめた記事「ecg.mag」の#20(2025年2月号)に文章を寄稿しました。#14(2024年8月号)ぶり、二度目の掲載です。



 外側に向けてVTuberに関する文章を書くことは難しい。とりわけ私が好む、取るに足らない生活の話がされる配信などは、規模が大きくなることを望んでいなさそうな場合が多い。自分に影響力があると思っているわけでは当然ないが、そういう空気を知ったうえで、外に向けた言葉をずけずけ書くこともできない。本人の意向はさておき、大枠が常に外側へ広がろうとしている大手事務所のひとたちに関しては、そういった心配も不要だが、誰が観ても思うことを書いたって、公の場では無意味である(公の場でなければ意味があると思っているから、このような場所を用意している)。したがって書きやすいのは、まだ知らない人間も少なくなさそうな、精力的に活動をしているひとのレコメンドか、大手のひとに対する、自分のなかで煮詰めた感想となる。
 VTuberの配信における近接ボイスチャットのことは、前々から書きたいと思っていた。今回は軽く触れるにとどまったので、別の機会にもう少し詳しくまとめたい。敷嶋さんの動画を好む感覚は、月ノ美兎や無月めもりの動画に対するものと近い。けれど、自分が以前よりも家を出るようになったことで、微妙に異なる見方が生まれたようにも思う。すなわち、VTuberが外にいて、それに誘われるのではなく、外のことに関して、VTuberに共感している気がする。だから何という話ではあるが、自分としては面白い変化である。

20250301 告知

挨拶

 ホームページを作成しました。これまで文章を載せていた「日光室」を一部分として、プロフィールや制作物をまとめられるよう拡張しています。過去のエントリも追って掲載する予定です。



 せっかくなので近況について書く。最近は以前ほどVTuberの配信を観ることに固執しなくなった。平凡な生活を送るさなかに視聴がある。本を読む気も、音楽を聴く気も起きない移動時間や、仕事の休憩中にYouTubeを開く。簡単に料理をしたり、食器を洗ったりしながら配信を流す。眠る前に、もしかしたら朝まで続いているかもしれない生放送や、もう何度も観た過去のアーカイブを再生する。こう書くと、さほど以前と変わっていないような気もする。少し意識してTwitterから離れていることが、固執しなくなったという体感を生んでいるのかもしれない。VTuberの居場所はYouTubeだけではないのだ。
 家を出ることが増えた。仕事を始め、ひとり暮らしを始めたから当然である。街でVTuberの姿を見つけても、わざわざ写真を撮らなくなった(よほど好きなひとを除いて)。都心の交差点で覚えのある歌声を耳にしたり、俳優やモデルさながらに看板のなかで佇む彼を見つけたり、あるいは私の知らない誰かが地下駅の壁ぎわで記念日を祝福されているのを目にしたりすると、もはやVTuberを好きでいることは何も特別ではないのだと、あらためて実感する。大浦るかこのラジオに、何かを好きでいる気持ちを自己同定の手段とすることの危うさについてのメールを送ったことがある(もっと砕けた書き方をしたと思うけれど、要旨はそんなところだった)。だから健全ではない自覚はあるが、VTuberを観ているだけで自分を特別に思えたころが、確かにあったのだ。かれらの存在が多くのひとの目に触れることは、心から結構だと思う。ただ私は、祭りの音がひとごとのように聞こえる場所を、相変わらず探している。
 ある程度の距離が生まれて、自分の根本的なところにVTuberの存在が大きく関わっていることを今いちど認識した。特定の誰かの言葉や考え方をトレースしているのではない。いわば、その不思議な存在形式に触れつづけて育まれたものが、日常の細かな選択や判断に影響を与えている気がする。まだ具体的な例示はできないけれど、視聴者の側で一定の領域を補う必要がある対象だからこそ、VTuberの居場所はYouTubeだけではなくなるのだ。その、ほとんど妄想か倒錯に等しい「視聴」さえも、書き留める意味はきっとある。更新が旺盛になるとは考えにくいが、私には、私の目に見えたものを言葉にするための場所が必要だった。かれらと同じ地平のなかに。

20250205 告知