saqum

夕方に眠る

 今日は朝から落ち着かなかった。なにか気になりごとを抱えていたわけではない。ただ、私のなかの内燃機関が少し狂っているような気がした。そういう日はしばしばある。作業に身が入らない。やることなすこと中途半端に終わる。いわば、33回転で聴くべきレコードを45回転で再生しているような忙しなさが続くのである。直接的な原因は定かでないが、今日は風が異様に強かった。環境音の面でも、いわゆる気象病のような面でも、風が強い日は昔から好きでない。

 夕方ごろ、休憩時間を使って一睡した。起きたら陽が落ちていて、部屋は暗かった。風も弱まっている。身体を起こし、水を飲みながら目を覚ましていると、件の落ち着かない感覚が消えていることに気づいた。床で眠ったせいで足腰は痛んでいたが、心身が整頓されたような気がした。風が弱まったからかもしれないし、単なる睡眠不足だったのかもしれない。

 深夜営業の店が減少している、という話題から酒寄颯馬は、夜明けに寝て朝に起き、夕方に寝て夜に起きる生活習慣について語っていた。このリズムは「世のなかのいちばんいい時間を生きている気がする」という。「朝日とか夕陽が出てる時間って虚無なんだよね」。朝焼けや夕景の美しさに眩んでいたけれど、言われてみれば頷ける。今日の寝起きを経て、あらためて思い出していた。しかし私に、真夜中の外食チェーンの甘美や、通勤・通学のひととすれ違う朝の散歩の愉楽を存分に味わえる日々は、今後訪れるのだろうか。職に就き、ひとり暮らしを始め、気づけば一年が経った。

20250415 日記

「ecg.mag #20」への寄稿

 サークル「enchant chant gaming」が月いちで投稿している、一ヶ月のあいだに触れたコンテンツをまとめた記事「ecg.mag」の#20(2025年2月号)に文章を寄稿しました。#14(2024年8月号)ぶり、二度目の掲載です。



 外側に向けてVTuberに関する文章を書くことは難しい。とりわけ私が好む、取るに足らない生活の話がされる配信などは、規模が大きくなることを望んでいなさそうな場合が多い。自分に影響力があると思っているわけでは当然ないが、そういう空気を知ったうえで、外に向けた言葉をずけずけ書くこともできない。本人の意向はさておき、大枠が常に外側へ広がろうとしている大手事務所のひとたちに関しては、そういった心配も不要だが、誰が観ても思うことを書いたって、公の場では無意味である(公の場でなければ意味があると思っているから、このような場所を用意している)。したがって書きやすいのは、まだ知らない人間も少なくなさそうな、精力的に活動をしているひとのレコメンドか、大手のひとに対する、自分のなかで煮詰めた感想となる。
 VTuberの配信における近接ボイスチャットのことは、前々から書きたいと思っていた。今回は軽く触れるにとどまったので、別の機会にもう少し詳しくまとめたい。敷嶋さんの動画を好む感覚は、月ノ美兎や無月めもりの動画に対するものと近い。けれど、自分が以前よりも家を出るようになったことで、微妙に異なる見方が生まれたようにも思う。すなわち、VTuberが外にいて、それに誘われるのではなく、外のことに関して、VTuberに共感している気がする。だから何という話ではあるが、自分としては面白い変化である。

20250301 告知

挨拶

 ホームページを作成しました。これまで文章を載せていた「日光室」を一部分として、プロフィールや制作物をまとめられるよう拡張しています。過去のエントリも追って掲載する予定です。



 せっかくなので近況について書く。最近は以前ほどVTuberの配信を観ることに固執しなくなった。平凡な生活を送るさなかに視聴がある。本を読む気も、音楽を聴く気も起きない移動時間や、仕事の休憩中にYouTubeを開く。簡単に料理をしたり、食器を洗ったりしながら配信を流す。眠る前に、もしかしたら朝まで続いているかもしれない生放送や、もう何度も観た過去のアーカイブを再生する。こう書くと、さほど以前と変わっていないような気もする。少し意識してTwitterから離れていることが、固執しなくなったという体感を生んでいるのかもしれない。VTuberの居場所はYouTubeだけではないのだ。
 家を出ることが増えた。仕事を始め、ひとり暮らしを始めたから当然である。街でVTuberの姿を見つけても、わざわざ写真を撮らなくなった(よほど好きなひとを除いて)。都心の交差点で覚えのある歌声を耳にしたり、俳優やモデルさながらに看板のなかで佇む彼を見つけたり、あるいは私の知らない誰かが地下駅の壁ぎわで記念日を祝福されているのを目にしたりすると、もはやVTuberを好きでいることは何も特別ではないのだと、あらためて実感する。大浦るかこのラジオに、何かを好きでいる気持ちを自己同定の手段とすることの危うさについてのメールを送ったことがある(もっと砕けた書き方をしたと思うけれど、要旨はそんなところだった)。だから健全ではない自覚はあるが、VTuberを観ているだけで自分を特別に思えたころが、確かにあったのだ。かれらの存在が多くのひとの目に触れることは、心から結構だと思う。ただ私は、祭りの音がひとごとのように聞こえる場所を、相変わらず探している。
 ある程度の距離が生まれて、自分の根本的なところにVTuberの存在が大きく関わっていることを今いちど認識した。特定の誰かの言葉や考え方をトレースしているのではない。いわば、その不思議な存在形式に触れつづけて育まれたものが、日常の細かな選択や判断に影響を与えている気がする。まだ具体的な例示はできないけれど、視聴者の側で一定の領域を補う必要がある対象だからこそ、VTuberの居場所はYouTubeだけではなくなるのだ。その、ほとんど妄想か倒錯に等しい「視聴」さえも、書き留める意味はきっとある。更新が旺盛になるとは考えにくいが、私には、私の目に見えたものを言葉にするための場所が必要だった。かれらと同じ地平のなかに。

20250205 告知