日光室
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20240410

 ただいま、という発声はもはや誰に宛ててもいない習慣だと思っていたけれど、待つひとの居ない部屋に向けて発されることはなく、きちんと意味を保っていたことがいまさら知れた。そして冷蔵庫の駆動音がいちばん大きく聞こえるほど静かな部屋に立ち入り、ひどく遠い場所まで来てしまったと嘆息する。液晶画面の向こう側の風景は自分がどこに居ても変わらない、だから大丈夫だ、という予測は前半が正しく後半が間違っていて、まだ家具の少ない殺風景な部屋で不自然に響く声を、私は上手く聞き取ることができなかった。

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「少し前までいろいろなことを保っていてくれた妄想の世界の住人も上手く出てこない」
 その言葉が聞きたくて再生したのではなく、もう居ないVTuberの言葉に触れて現実を希釈したかっただけの私は思わず歩みを止める。
「ただひたすら毎日が長くて、一週間が一ヶ月みたい」。
 たとえば、誇らしげにニートを自称する彼女が珍しく朝に喋っている声を、着慣れないジャケットを羽織って歩きながら聞くのは少し運命めいている気がした。しかし、そこで発された「サクナヒメは夏休みにやりたい」という言葉の、夏休みという語彙選択に感動したことと、また別の彼女の、毎年恒例の配信のよくわからない挨拶に苦笑したことが、同日のうちに発生した出来事だというのが信じ難い。その日、私のなかで何が変わった?
「──こういう心情から5、6年、それこそ自分ひとりを生かすといういちばんくだらない理由で働き続けていますが、今のところ問題ありません」。

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いっさいの語弊を恐れずに「笑った」と言いきりたい配信の、ひさびさに聞いた声から確かに勇気を受け取る。そして、乗り込んだ電車のなかで自分が愛していたものを誘われるように思い出す。風景が見知ったものに変わっていく。早く慣れてしまいたいのに、不慣れだったころの自分が消えてしまうのも恐ろしい。同一性だの連続性だの、食傷気味だった言葉をいまいちど弄すれば少しは救われる?

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 故郷と呼ぶには近すぎる場所。そこに降り立ったとき、さしたる感動も無かったのは今もなお現実がその場所にあるからだ。ならば逃避は、ただの必然的な帰宅になって……翌朝、まず最初に腰が少し痛み、ごく普通だと思っていたマットレスが柔らかい部類だったことを知った。そして、おもむろにタブレットを操作して好きな定例配信を開く。錯誤が常態化した感性のなかで懐かしさはいつも新鮮な感動である。(基本的に)鈴を振るような声と、オカリナの音を聞きながらふたたび目を閉じる。いつもそうしていたように。

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 ただいま、と試しに声を発してみる。誰もいない部屋に、あるいは光の差す架空の一室に向けて。

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