天気デッキなんて言葉が揶揄や自嘲として浸透している場所ではあるが、VTuberが今日の気温や、気圧や、湿度のことを話す瞬間は特別だった。今年は立冬を越えても異例の夏日が続いていたが、ここ数日は一転して急激に冷え込んだ。雑談配信の冒頭やゲーム実況の隙間に寒い、寒いと言う声を、すでに何度か耳にした。「手、擦る音入った? もっと近づけたら聞こえる?」……いつ誰が言ったのか、正確なことは何ひとつ記憶に無いけれど、そんな言葉もいつか、確かに聞いた覚えがある。そして直後、写真や映像を見るよりも鮮やかに肌理を感じるような、両手を擦り合わせる乾いた音が本当に聞こえる。
現実世界で誰かと待ち合わせをして、目的地まで歩く道すがらなどに、今日は冷えるねとか言いあう時間はもともと好きだった。しかし、その単純な安心感がインターネットを介して再現されているわけではない。見るからに次元の異なるかれらと、私たちのあいだで季節の移り変わりが一致していることは、ある意味で奇跡的な偶然のように感じられた。常にそこまで大袈裟なことを考えているわけではないが、そんな想いが兆す瞬間は確かに存在する。
あるいは、季節外れなアーカイブを観るときのことを考える。たとえば今、去年の夏の紫宮るなと兎咲ミミのモンハン配信を眺めてみる。深夜から続いていたのか、眠れなかったふたりが夜明けごろに開始したのかは覚えていないが、とにかく私の好きなシーンは早朝だった。狩りが始まる前の静けさのなかで、紫宮がふいに「蝉が鳴いてる」と口にする。しばらく沈黙が続いたあと、みみたやが蝉の一週間の命を憂いはじめる……その一部始終を観ると、2022年の夏の朝に飛ばされるとまでは言わないが、少なくとも私の心は現在から少しだけ離れる。
配信のアーカイブは紛れもなく過去のものだが、VTuberがそのなかで今もなお現在として生き続けているように錯覚することがある。それはかれらの声を習慣的に現在のものとして据え置いてしまう私の条件反射と、リアルタイムの喋りが無加工のまま残され続ける事態、そしてなにより、居場所の曖昧なかれらの虚構的な部分によって生まれているのだと思う。
今年の三月ごろにもたぶん似たようなことを考えていて、その一部は同人誌に収めてもらった「眸の街」という文章に表れている。どれだけのひとが読み、何を思われたのか私はほとんど知らないのだけれど、簡単な解題になる気もしたので最後に一部を転載する。「時差的なもの」は言わずもがな委員長の名探偵スワー実況並びにそれゆけ!からの引用で、この言葉に関する書きかけの文章も確かあった。いつか整理してしれっと載せたい。
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もしかれらが私たちと同じ時間を共有していなかったら、その途方もない距離も忘れられなかったのだろう。やさしくて恐ろしい忘却に、特別な会話は必要ない。桜、まだ咲いてなかったという彼女の呟きが、私の部屋から捉えられる季節の予感と結びつけばそれだけでよく、あるいは本当はそれすらも不要で、過去の、現在だったころの温度に上手く触れることさえできたのなら、その幻の共時性の通路を通り抜けて、かれらはいつでも傍に現れて、私たちはどこにでも行けたのかもしれない。避けられない時差的なものの存在を飛び越えて、信じるように。