日光室
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20231013

私のいまの生活上、きまってひとと顔を合わせるのは金曜日だけで、だからいつも微妙に波立った気持ちで週末を迎える。毎日のように誰かと会っていればひとつひとつの社交の負担は減るのだが、機会が少ないと不安も反省も長引くから厄介だ。べつに嫌な人間が居るわけではなく、嫌な行為を強いられるわけでもなく、環境としては恵まれているのだが。今日は帰ってからも日付が変わるまで別件で通話を繋いでいたから、いつもより心が磨耗している。風呂に入る前に、予定より15分遅れで始まった小清水のドラクエⅡの配信を流して、とりあえず冒頭を観た。最初の数分を見守ると、その後の生活を配信の引力圏に入れられる。初期衣装に新しい髪型を合わせたスタイルが新鮮だった。

風呂から上がっても当然配信は続いている。レトロゲームの配信は注視しなくても雰囲気で流れが判るのがいい。小清水くらいの長時間配信を目の当たりにすると、私はつい鈴原のことを思い出してしまうのだが、ふたりの差異のひとつにはレトロゲームを遊ぶか否かがあった。いうなれば鈴原はパッド的で、小清水はキーマウ的なゲームチョイスである。だからミートピアでRPGに目覚めた小清水が、最新作を遊ぶ前にドラクエの過去のナンバリングを辿りはじめたのは少し意外で、レトロゲームの配信画面が好きな私はうれしかった。逆にいえば、RPGの定義も怪しげだった状態でこれまで十数時間の配信を繰り返していたことに恐怖も覚えるのだが、新たな領野が切り拓かれたような高揚感のほうが当然大きい。

疲れた、と思いながら椅子に座って脱力し、配信画面をぼんやり眺める。小清水の配信は、VTuberを語るときに巷間言われるような「待ってる」感じも「会いに行く」感じもない。そのような身体的な比喩は似合わず、ただ純粋にゲーム実況の生配信を観ている、という感覚だけがある。それはいつかの子が歌った「ゲーム実況してる女の子」に少し似ているのかもしれないが、深夜の退廃的な空気が漂っているわけでもない。もっと穏やかで、安定した場所である。

ひとつ悲しいのは、瞬間的な感慨を書き留めようとしてテキストエディタを立ち上げたら、配信をミュートにせざるをえないことだ。このジレンマにはずっと悩まされている。とっとと切り上げて、ベッドのなかで声を聞きながら眠る。もしそこで一日の反省会が始まっても、小清水の配信より長引くことはないと思える。

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