実在しないことを強調するVTuber、ぱっと思い出せないがいたら結構ぐっとくると思う(02:19)「いる」ことが現在の基本思想(?)だと思うしそれがいいのは言うまでもないが、コンビニの話や税金の話が「いない」主張ですべて物語になるところも見てみたい(02:24)
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「VTuberって何次元なんですか?」というInstagramでの質問に、クレアさんが「画面の中って意味では二次元だけど、心には次元がないから同じ世界を生きていると思う」と答えていたのをよく覚えている。あるいは誰だったか忘れたが「街で見かけたら話しかけてくれて構わない」と口にするVTuberもいた。直感的に「いない」と思われてしまう存在に対して、ほとんどのVTuberは弁明のように、あるいは当然の事実として「いる」ことを主張する。それが愛おしい(と言うのももはや奇妙に感じられるほど自然な)営みであることは言うまでもない。
他方、VTuberの可能性として、自身の非実在性を強く主張する人も見てみたいと思った(これもまた、すでに誰かいたような気もするのだが思い出せない)。虚構のキャラクター像やライフスタイルを練り上げて配信で語る、ということではない。いわばぶいすぽ的な現実性のなかで「私はどこにもいない」と言ってほしい。それは配信をエクリチュールにする魔法の言葉になりうるのではないかと思う。
「バーチャルだけどいる(Vital)」思想が三次元から二次元への「移管」、あるいは三次元を材料にした新たな「生成」ならば、「いない」バーチャルにおいて、三次元は二次元にかけて「昇華」され、そこで生活は(感覚的に)消滅する。などと言ってみて、これは私がときどき覚える「消えたさ」(≠死にたさ)の投影に過ぎないと気づくのだが……ただ、自分の生を「いない」存在に仮託することで支持するある種の文学的な営みが、配信上でより鮮烈に行われるのは悪くないような気がした。ふいにいま初鹿野の存在を連想したが、彼女の実在性に対するスタンスをすぐに示せる自信はない。あとその世界観ではオフコラボが難しいので人気者になるのは大変そうである。しかし、インターネットの片隅でひっそりとそんな活動をしている人を見つけたら、私は間違いなく惹かれてしまう。