日光室
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20221228

動画が多く再生されることを「回る」って言うやつ仕事っぽくてあんまり好きじゃなかったがやや聞き慣れてきた(02:46)「回る」イメージのなかでは視聴が現象になっていて個別のクリックが見過ごされているように感じていたが、じっさい配信者の側からしたら万単位の再生は現象なんだろうなと思う(02:53)委員長が「コメント欄がひとつの大きな総体に見える瞬間」の話をしていたことを思い出す(02:54)VTuberの視聴者がなにか言葉を発することの意味は、そのままでは現象や総体になってしまう自分の視聴に、温度を回復して配信者まで(それとなく)伝えるところにあるのかもしれない(03:02)「おじさまがどんな人たちなのか気になる」と言って個別のリスナーに質問を投げ始めた現実みろのことも思い出し…… (03:25)

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おそらくピーナッツくんのネタを端緒に違和感がシェアされ始め、りりむも「ちゃんと聞いて」と怒った「うんうん」や、一ノ瀬うるはが「そればかりになるのも考えもの」とぼやく「nf」「gg」、そしていまだに、どこに行っても見かけられる「助かる」「えらい」といった定型句は、コメント欄を総体として抽象化するいっぽう、配信の雰囲気や、リズムを生み出す原動力にもなっている。次元を超える手書きのファンレターをよろこぶ姿と、距離の近いスーパーチャットに困惑する姿。そして、定型句に辟易する姿と、その速度に安住する姿。

ファンアートは視聴者の幻視を客体化する営みであると思う。その圧倒的な有利は、次元をそのままにかれらを息づかせられる点にあるが、そこでは「幻視である事実」は後退する。VTuberにかんする、小説でもSSでもない一人称の文章に私が漠然と感じていた意味は、幻視の主観性を維持したまま、すなわち「幻視の温度」それじたいの価値を残したまま、かれらを記述できる点にあるのだと思う(むろん、主観の痕跡が残るファンアートも、客観に終始する文章も存在する)。配信者に「総体と対峙する寂しさ」があるならば、視聴者に「総体として佇む不安」が生まれることもあるだろう。幻視の温度は、それらを慰めうるかもしれない。そして、だとしたら、他人の生活のなかにVTuberの視聴があるツイートや文章を好む気持ちは、ファンアートを楽しむ気持ちと、根本的に似ていることになる。それらは、幻の描き出される位置が違うだけだ。

far / all / near